生成AI時代の著作権は、「AIの問題」ではなく「人間の問題」?

  
 「生成AIが作品を生み出すようになったら、著作権の考え方は通用しなくなるのではないか」、このような言葉を、SNSや動画で一度は目にしたことがあるかもしれません。数行のプロンプトを入力するだけで、絵や文章や音楽が瞬時に生成される光景は、たしかにSF映画の一場面のようです。人間が何もしなくても作品が出来上がってしまうように見え、「創作とは何なのか」と戸惑うのも無理はありません。

 

 しかし、ここで一度立ち止まって考えてみたいと思います。裁判所は、本当にそのようなロマンに流される場所なのでしょうか。
 実は中国の裁判所は、生成AIと著作権をめぐる問題について、極めて地道で、そして驚くほど「人間中心的」な判断を示しています。その代表例が、「春风送来了温柔(日本語訳:春風が優しさを運んでくる)」事件と、「伴心(日本語訳:心に寄り添う)」AIGCをめぐる著作権訴訟です。

 


「春风送来了温柔」著作権訴訟――春風は誰が運んだのか

 「春风送来了温柔」著作権訴訟は、その名称からは詩的で穏やかな印象を受けますが、内容はきわめて現代的です。
 物語は、2023年初頭、北京から始まります。ある男性が、画像生成AI「Stable Diffusion」を使って、一枚のイラストを作成しました。淡い色調の中に、春の空気感と静かな感情が漂うその画像に、彼は「春风送来了温柔(日本語訳:春風がやさしさを運んできた)」というタイトルを付け、SNSに投稿しました。
 重要なのは、この画像が一度の入力で偶然できたものではないという点です。原告は、プロンプトの語句を何度も調整し、構図や雰囲気が異なる複数の生成結果の中から、最終的にこの一枚を選び取っています。
 ところが後日、別のユーザーがこの画像を無断で転載し、しかも作者名を削除した状態で公開しました。これに対し、原告は「これは私の著作物であり、著作権侵害だ」として訴訟を提起します。

(実際に原告が生成した「春风送来了温柔」の画像)

 ここで争われたのは、単なるマナー違反や不正使用ではありませんでした。
 この事件で裁判所が真正面から向き合ったのは、AIが作った画像は、著作権法上の「作品」なのか、という問いでした。
 北京インターネット裁判所はまず、次の点を明確にしています。
 「AIは自然人ではなく、法律上の主体ではない」。したがって、「AIそれ自体が著作者になることはない」と述べました。
 しかし、裁判所はそこで議論を終わらせていません。判決は、画像が生成されるまでの過程に注目します。
 「当該画像の生成過程において、原告はプロンプトの設計、生成結果の選択等を通じて、個性的な表現を形成している」。このように述べ、創作過程における人間の判断と関与を重視しました。
 つまり、裁判所が重視したのは、「AIが作ったかどうか」ではありません。誰が考え、誰が選び、誰が表現に責任を持ったのかという点でした。
 春風は、たしかにAIという技術に乗ってやって来ました。しかし、その風向きを決めていたのは、人間だったのです。

 


「伴心」著作権訴訟――AI生成の画像が、現実世界に現れたとき
 「伴心」AIGC著作権侵害事件も、同じ問いを別の角度から私たちに投げかけています。
 原告は、AIGC(AI生成コンテンツ)を使って活動するデザイナーでした。彼が制作したのは、夜景の中に浮かぶ、半分だけのハート型オブジェを描いた一枚の画像です。タイトルは 「伴心(日本語訳:心に寄り添う)」。
 この作品も、プロンプトの設計、構図、光の当て方など、人間の選択の積み重ねによって完成したものでした。原告はこの画像を正式に著作権登録しました。

(実際の著作権登記証書)

 

 ところが数か月後、別の企業が、湖畔に極めてよく似た巨大なハート型の実物オブジェを設置し、SNSや広告で広く公開しました。原告はこれを見て「私のAI作品が、現実世界に“立体化”されている」と感じ、著作権侵害を理由に訴訟を提起しました。

(被告のオブジェ)

 江蘇省常熟市裁判所は、次のような観点から丁寧に検討を行っています。
 プロンプトの内容が、単なる抽象的な指示にとどまっていないか。生成結果に対して、取捨選択や修正といった判断が行われているか。最終的な表現に、一貫した美的意図や世界観が読み取れるか。
 これらを総合的に判断したうえで、裁判所は「当該成果物は、単なる機械的生成の結果とは言えない」と結論づけ、原告の主張を認めました。

 

 注目すべき点は、ここでも裁判所がAIそのものを否定していないことです。判決は、AIを「創作活動を補助する技術」と位置づけ、その利用自体を問題視していません。その一方で、「著作物の帰属判断においては、人間の知的投入の有無を検討すべきである」と明確に述べています。

 

 つまり、AIは魔法のように作品を生み出す「作者」ではありません。しかし、使い方次第では、非常に優秀な「相棒」になり得る存在だと整理されたのです。ただし、相棒にすべてを任せきりにした瞬間、作品は「誰のものとも言えないもの」になってしまいます。

 


もし裁判官が、あなたのプロンプト入力画面をのぞき込んだとしたら
 ここで、少し想像してみましょう。
 もし裁判官が、あなたのプロンプト入力画面をのぞき込んだとしたら、きっと、こう尋ねるでしょう。
 「なぜ、その言葉を入力したのですか。」

 

 生成AI時代の著作権判断は、突き詰めるとこの一言に集約されます。
 どのような世界観を表現したかったのか。なぜ、その言葉をプロンプトとして入力したのか。なぜ、その生成結果を選び取ったのか。
 これらを説明できなければ、「創作した」とは言いにくくなります。逆に言えば、これらを説明できるのであれば、AIを使っていても著作物として認められる可能性があるのです。これは、技術を無条件に賛美する考え方でも、技術を否定する立場でもありません。むしろ、非常に徹底した人間中心主義的な発想だと言えるでしょう。

 


著作権は、まだ人間のそばにある
 生成AIの登場によって、著作権が崩壊するどころか、むしろ裁判所は、「創作とは何か」「人間の関与とは何か」を、これまで以上に丁寧に問い直しています。
 著作権の問題は、AIが賢くなりすぎたことではありません。人間が、創作にどう向き合うかという問題です。だからこそ、生成AI時代の著作権は、「AIの問題」ではなく、「人間の問題」なのです。春風を呼び込むのも、誰かの心に寄り添う形を選ぶのも、プロンプトを打ち込む、私たち自身なのです。

 レポート作成、プレゼン資料、創作課題。大学生活の中で、生成AIを使いたくなる場面は今後ますます増えていきます。 ここで、これら二つの判決が静かに伝えているメッセージを要約すると、次のようになります。
 「楽をするな」とは言いません。しかし、「考えるのをやめるな」とは、はっきり言っています。
 春風は、優しさだけでなく、問いも運んできます。「それは、本当にあなた自身の表現ですか。」
 その問いに対して、少し照れながらでも胸を張って答えられるのであれば、あなたはすでに、生成AI時代の立派な創作者だと言えるでしょう。

 

 

2026年02月22日